旅をすることの何が好きか
何が好きで、何が嫌いか。
その人をつくる核となるのは、その人の好き嫌いにあると思う。
でも、案外自分の好き嫌いがどこにあるのか自覚することは難しい。
好き嫌いはあまりにも自然にその人の行動に含まれてしまっているので、いちいち自覚をすることはないからだ。
それに加えて、好きであったり嫌いであったりする物事の方にも、事態を分かりづらくさせる理由がある。
それは、好きなことの中にも嫌いなことが含まれていたり、嫌いだと思っていることの中に好きだと思える部分が含まれていたりする。
完全に100%好きなこととか嫌いなことというものは、現実にはあまりないのかもしれない。
好きなこと、と言われて、パッと思いつくのは、旅だ。
時間があれば、どこかに行きたいといつも思う。
この旅というものの何が好きなのだろうか。そして、嫌いな部分が含まれているのだとしたら、それは何なのだろうか。
計画が嫌い
旅は好きだが、計画は嫌いである。
いつ出発するのか、どこに行くのか、何をするのか・・・
普通、旅をするときは一つ一つ計画をするのが当たり前だと思う。
ところが、どうにもこの計画というものが向いていない。
そもそも、旅は好きだが、「ココに行きたい!」という思いが先にあることはむしろ稀である。
基本的には、「前に旅に行って面白かったから、またどこか行きたい」とか「時間が沢山とれるうちしか海外に行けないのだから」とか、行き先や目的ありきというよりも、旅をすることありきである。
どこに行くかは後付けだし、そこで何をするかを考えるのは、現地が基本だ。
まず、思うのは、観光地と言われるような場所に興味がないのだと思う。
世界の観光地とされている場所は、雄大な自然であったり、歴史のある建造物がほとんどであると思う。
これらにそそられることはまずない。
現地でオススメの場所を調べると、真っ先に出てくるのがこれらなので、試しに見ておくかとばかりに足を運ぶが、まあそこまで面白いものでもない。
普通の旅行者はきっとこういう場所に訪れることを楽しみにしていると思うのだが、どうしてそそられないのだろうか。。
人と交流する体験が好き
それでも、カミーノはやっぱり面白い。
その理由は、途中で通る大聖堂や世界遺産ではなく、人との交流が盛んであるからだと思う。
基本的に一人の時間がほとんどで、その間は考え事をしたり、本を読んだりしている。
でも、ふとした時に話しかけてくれる人がいたり、歩調が会う人がいたり、ついつい一緒に付いて行ってしまうような人がいたりと、偶然の出会いが訪れる。
この人とのコミュニケーションが、心の奥底で旅に期待しているものなんじゃあないのか。
普段の生活では、一人でいることが多いだけに、人との関わりやコミュニケーションに飢えてるのかもしれない。
自分のことを分かってくれたり、気遣ってくれたり、話を聞いてくれる人が欲しい。
それが素直な気持ちだと思う。
わざわざ、海外に出かけていってまですることなのかな。
価値観を揺さぶり、記憶に残る出逢いが欲しい
本質的に欲しいのは、自分を変えるチャンスなのかもしれない。
日本でも人と話したければ、友達に会いにいったり、イベントに出かけたら良いのかもしれない。
でも、そういう通りすがりの出会いにうんざりしている部分もある。
友人に会ったら、たわいのない話。
初対面の人に会ったら、当り障りのない話。
目が醒めるような気づきや出逢いは、そうそうない。
だから、ここではないどこかに出かけて行き、まだ見ぬ人に出会えることを期待している。
カミーノでマリオと話をしていた時、なんとなしの会話を楽しむはずが、気がついたら「何かレッスンになるようなことを言ってくれ」「人生の哲学を話て欲しい」なんて期待をしている自分がいた。
目の前の会話を純粋に楽しむというよりも、その会話によって何が得られるかや将来の自分をどう成長させてくれるのかばかり考えている。
普段人と交流することが少ないだけに、過度な期待がかかってしまうのかもしれない。
そういう人にはどこに行けば出会えるのだろうか。
一緒に何かに打ち込むことが必要なのだろうか。
世界的に有名な観光地に行くことや、発展途上国に行くことが、自分を変えてくれるとは限らない。
出逢いは自然なのが一番。
行き先が有名だとか、特別だとか、羨ましがられるとか、そういうことは考えても仕方ない。
出逢いは、自分で操作できるものではないのだから、心が傾くような場所にふらっと行ってみればいい。
そして、人気の観光地や飲食店を調べることは脇に置いて、散歩でもしたらいいんじゃないのか。
旅は義務ではない。
今、やりたいことをやるのが一番だと思う。
SHE'S OUT OF MY LEAGUE (ある日モテ期がやってきた)
「だから好きより、なのに好き」
容姿もいまいちで学歴もない冴えない男カークと、容姿端麗で非の打ち所がない美女モリー。
誰にでも優しく、格好つけたり飾らないカークに惹かれ、モリーは付き合うことに。
側からみたら納得いかないぐらい不釣り合いな二人なんだけど、案外先に惚れているのは美女のモリーの方だったりする。
本当はお互い愛し合っているんだけど、カークは次第に自分のことを蔑んでしまい付き合って行く自信がなくなってしまう。
「こんな自分なんて…」
魅力的な相手を見ることは、イケてない自分を見ることでもある。
少しでも自分のことを好きになってくれたから付き合っているのに、その関係を自分で終わらせようとしてしまう。
「良いところがあるから好き」よりも、「こんなに悪いところがあっても好き」というのが、本当に好きってことだ。
親友のハチャメチャな助けもあって、カークは、モリーがありのままの自分を愛してくれていたことに気づく。
自分が自分のままでも愛されることを教えてくれた人は、いつまでも大切にしていきたい。
親友のステイナーもメチャクチャなんだかど憎まないヤツだった。
相手の境界をわきまえて気を遣い合う関係がただの友達だとしたら、彼とステイナーは間違いなく親友だ。
相手が間違っていると思ったら、躊躇なく境界を越えて指摘してくれる。
本当に大切な人は、人生で同性と異性に一人ずつ出逢えれば御の字。
この映画はその2人を教えてくれる。
ホーンズ 容疑者と告白の角
ハリーポッターでお馴染みのダニエル・ラドクリフ主演の物語。
恋人を何者かに殺されたイグが、ある日突然生えてきた誰にでも本心を語らせる角の力によって復讐を遂げる。
ハリーポッターをイメージして観るとファンタジーの要素の作り込みが甘いと感じてしまうが、この能力の使い方は面白い。
ビリギャル
やる前から可能性を感じるから、やり遂げられる。
観ていて「あの時もっと頑張っておけば」と一度も思わなかったのが分かったのも良かった。
男と女の不都合な真実
本当に好きになったひとの前では、しどろもどろでいい。
七つの贈り物
奪ったものは償わされ、与えたものは与えられる。
青い鳥
「本気で喋ってるときは、本気で聞かないといけないんだ」
いじめが原因で自殺未遂を起こした生徒がいた教室に臨時で訪れた教師村内。
極度の吃音症であるが、否、吃音症であるからこそ、その言葉はずっしりと重い。
言っても言わなくてもよいことは一切なし。
本当に伝えるべき大切なことだけを伝える。
短所のはずの吃音が、彼の生き様を際立たせているのだ。
短所は決して隠すことなく受容する。
それが逆に一番の長所として光ることもある。